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三重豪NZ協会メールマガジン                          

  季刊 サザンクロス三重

         
Southern Cross MIE

                 
                
                 2020年4号(通号12号) 2020年12月21日発行


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もくじ
来し方80年    宮本忠

 来し方80年        宮本 忠

昨年の夏、三重大学の卒業生から電話が入った。

「先生、傘寿をお迎えですね。おめでとうございます。出身ゼミ生で祝賀会をもちたいのですが、、、」

僕「えっ、数年前に喜寿の会をもってくれたばかりなのに・・・、それに新型コロナウイルス問題も無視できないよ」と話し合っているただ中に、「秋の瑞宝中綬章」授与の連絡が文科省と三重大学からあった。「ただし、11月3日の正式叙勲の発表まで内密にされるように」という忠告が付されていた。これが外にもれると何かと私自身の周辺が騒がしくなるというのである。



何が何だかわからぬままに11月3日が来て本日は14日、叙勲後10日もすぎたのにいまだに祝電などが届く。

きょうは、私たちJRPS三重の恒例の秋のイベント及び交流会の日。

叙勲について今日まで頭の中の整理ができぬまま交流会の日がやってきた。朝10時過ぎ交流会の参加者約30名がJR亀山駅前の広場に集まった。久しぶりの出会いなのでにぎやかである。

優しい日光の「小春日和」といいたいところだが、少し強い冷たい風が気にかかる。しかし雨はなかろう、と推測。予想どおりイベントの最中には、雨はなかった。

亀山は人口5万ほどの山の緑豊かな市である。

亀山駅は、かつては国有鉄道であったが、1987年(昭和62年)に民有化された。その結果、亀山以東がJR東海、亀山以西がJR西日本の路線になった。関西本線の起点は名古屋駅、終点はJR西日本のJR難波駅である。また、紀勢本線は、亀山駅が起点で、終点は和歌山県の和歌山市駅である。そして亀山-新宮間はJR東海、新宮-和歌山市間はJR西日本の管轄である。新宮駅が境界駅となっている。慣れればどうということでもないのかもしれぬが、初めての僕にはとても複雑でややこしい感じがする。なお、亀山駅の所在地・住所は三重県亀山市御幸町198である。



「10時15分 亀山駅 改札口集合」という計画どおり参加予定の者のほとんどが亀山駅前に結集した。予定コースや昼食、トイレのことなどの案内などが役員さんによってなされた後、11時前、本日のコースに従って歩道を歩きだした。駅前車道に車数は多くない。歩道にも人影はほとんどない。静かな風情。

聞くところによれば、Sさんら二人が二度現場を予め訪ねて計画を具体化してくれた。途中坂道もあるので希望があればタクシーも利用できるとのこと。僕も含めてみなさん白杖を巧みに操って頑張って歩いた。

亀山藩家老の建物を横目で通過し、次いで旧加藤家住宅内をけつまづかぬように、ゆっくり移動した。呉服商の旧家で庭園もなかなか立派と感じた。

昼食は各自用意。駅近くの店で買った人もいたらしいが。場所は亀山市青少年研修センター。

食事後、会員各自の近況報告·意見交換、「JRPS三重の歌」の合唱そして募金運動など。

午後1時過ぎに亀山市博物館(企画展 ヤマト タケルノミコトの愛と死展)をガイドさん付きで勉強。ひとときの歴史ロマン。



博物館見学後は、30分ほどで亀山駅にそれぞれの楽しみで三々五々遊歩した。途中、「足腰強いですね」と声がかかった。ときには「顔が光っています。しわがないですね」。若いときにはこういうかけことばはなかった。ということは、それだけ年輪を重ねた、ということだろう。

最近、自分の顔を鏡で見ることはないが、おそらくみなさんのいわれることは当たっているのだ、と思う。

それならば何故そう言われるのか、と考える。結論は、子供のときの暮らし方にあるのでは?ないか。

小学生の、5年頃から中·高校のお兄さんたちの中に入れてもらって野球やソフトボールをしていた。夏には片道1里(約4km)もある気比の松原海水浴場に連れて行ってもらって海水浴に興じた。その当時、まだマイカー時代でなかったので、往復10kmを平気で歩いたのだった。冬は近くの山道でスキー。その頃は、福井県敦賀には屋根まで雪が降ったのである。村立粟野中学校に入学すると直ちに野球部に入った。生徒会長をおおせつかっていたが、野球部担当の理科の先生は、僕にキャプテンを命じた。当時、粟野中学校は福井県の理科教育の当番校だった。監督はその準備に忙しそうであった。野球部の指導はほとんどなかった。

僕は町の本屋で野球の本を買ってきて、勉強した。そして夕方薄暗くなるまで野球部は、白球を追った。ときには敦賀高校野球部の粟中の先輩がコーチしてくれた。しかし敦賀市の最大の中学校と練習試合をしてもいつも10点以上の大差で敗北。かれらには後援会があり、ピカピカの靴を買ってもらっていた。僕らのスパイク靴はズックでしかもやぶれていなければ、卒業していった先輩の汗にまみれた古い靴をありがたくはいていた。

ところがである。敦賀地区中学校野球大会に何といつも大敗している町の中学と決勝戦にあたり、勝利したのである。優勝戦には、校長先生を先頭に全校の生徒が応援に駆けつけてくれた。

僕は優勝旗をもち、野球部員と共にダイヤモンドを一周させられた。

県立敦賀高校の野球部後援会の人が父親のところに何度もきて息子を敦賀高校野球部に入るようにすすめるのであった。僕が生返事をしていたがついに父は僕に「どうする」と決断を迫った。「将来の行く道は自分で決めよ」と。

僕ははっきり言った。「高校に合格しても野球部には入るつもりはない。入らない。後援会のおじさんにきっぱり断ってよ」。父は一言もなくうなずいた。



敦賀高校はぼくの在学中、2度、甲子園に出場している。その主将は、明治大学野球部で活躍したT君だった。彼はプロ野球阪神タイガースの捕手になり、将来の監督候補の一人といわれていた。だが悲しいことに45歳前、病気のために天に召された。合掌。

話を現実に戻す。

博物館見学後は再び散策を開始して予定通り、午後3時頃、三々五々に全員無事に亀山駅前に戻ってきた。

由紀さんによれば

「きょうは万歩計が1万歩以上をさしている」

帰宅後二日ほど「太もも」に軽い違和感があったが、今はもとに戻り、日常生活にいそしんでいる。



市役所の高齢者のための身体検査では、担当医師が

「悪いところは何もありません。この年齢では異常です」

「先生、異常は悪いという意味ですか」と尋ねたら、

「ほとんどの人がこの年齢では通常は何らかの問題があるものです。すみません、悪い意味の異常ではなく、良い意味での「異常」なんです」。



傘寿は数え年で80歳の祝い。「傘」という字は、「傘」という漢字の略字が「八」と「十」を縦に並べたような字であり、「八十」と読めることから由来しているようである。本来は、傘寿は数え年80歳のお祝いのため、満79歳を迎える年に祝っていたらしいが、しかし、今では誕生日に年齢を重ねるという考え方が一般的になってきているようである。

喜寿のときには、黄色や金色、金茶色のものをプレゼントする風習があると聞く。僕の喜寿の家庭祝賀のときには、「紫色の「帽子」「ちゃんちゃんこ」を孫が着せてくれた」と、妻の由紀さんがいっている。が、僕は覚えていない。



今や100歳時代到来⁉

平均寿命が延びている現代であっても、やはり80歳を過ぎても元気なのは、有り難いこと、ですよね。

無理せず、朝6時半にラジオ体操を楽しみ、きょう1日を頑張ろう。



(本稿は、JRPS三重の会報に寄稿したものに若干の修正をくわえた。会報担当さんの了承済である。)





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