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三重豪NZ協会メールマガジン                          

  季刊 サザンクロス三重

         
Southern Cross MIE

                 
                
                 2019年1号(通号8号)   2019年7月31日発行


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もくじ

 お礼    三重オーストラリア・ニュージーランド協会会長  宮本 忠

 2019年「みんなの広場 in 松阪」開催される!

 私の海外旅行                      辻本 和仁




お礼   三重オーストラリア・ニュージーランド協会会長 宮本 忠


あまりなじみのないテーマ、開会の朝、ポツリ、ポツリ。「春雨だ、濡れて行こう」

50名近くの方が参集くださり、活発に意見交換、豊かな体験談が披露された。会場に明るい雰囲気がただよった。これひとえに多くのみなさまのご理解とご支援の賜物であります。

激務の中、竹上真人松阪市長さん、片岡始市福祉事務所長さんのお祝辞もいただきました。また、会場最寄りの近鉄松阪駅改札口にはお二人の高田短期大学のボランティア女子学生さんが案内を手伝ってくれました。また予測外のたくさんのマスコミによる取材・告知報道がありました。東海ラジオ、夕刊三重、中日新聞、三重タイムス、伊勢新聞そして朝日新聞。まことにありがたいことでした。お礼申し上げる次第でございます。



2019年「みんなの広場 in 松阪」開催される!


         

三重オーストラリア・ニュージーランド協会は網膜色素変性症協会三重支部(JRPS三重)と共催で、本年3月17日(日)午後2時から松阪市日野町の松阪市産業振興センター・カリヨン別館1階において、「みんなの広場 in 松阪」を開催しました。テーマは、「海外旅行とユニバーサルツーリズム -シニアと視覚障害者を中心にして-」でした。目の不自由な方が多数参加されるので、高田短期大学の学生さん2名が松阪駅に立ち、会場に誘導してくれました。
あいにく小雨でしたが、50名近い参加者。多忙にもかかわらず駆けつけた松阪市長竹上真人さん、市福祉事務所長片岡始さんの祝辞もありました。総合司会は米倉芳周本協会理事(市会議員)。
基調講演やパネリストの熱のこもった報告があり、フロアーから多数の意見や質問が出され、活発な意見交換ができました。以下当日の様子をお知らせします(文責、三重豪NZ協会メールマガジン編集担当 立石雅彦)。


JRPS三重の会長の開会あいさつと松阪市長などの祝辞
冒頭、本年3月15日クライストチャーチのモスクで発生した銃乱射事件の犠牲者に黙祷を捧げました。
続いて河原洋紀JRPS三重会長のあいさつと、竹上真人松阪市長などの祝辞がありました。
河原会長は、日本網膜色素変性症協会三重支部(JRPS三重)が1996年に創立以来、さまざまな活動をしてきたこと、そして創立10年記念に大きなことをしようと決めており、それが三重豪NZ協会の世話によりニュージーランド旅行として実現したこと、5年後また同協会とともにオーストラリアを訪問したこと、さらに昨年2月に再度ニュージーランドの北島オークランド周辺を訪れ現地の視覚障害者団体などと交流を重ねたことを紹介しました。協会のモットー「安心安全で安価な旅」を楽しんでいるとし、われわれは晴眼者の同行が必要なので2 人分の費用負担しなければならず、安価なことは視覚障害者にとって特に大切だと語りました。また、視覚障害者でも健眼者と一緒に海外旅行ができることをぜひお知らせしたいと強調されました。
竹上真人松阪市長は、新婚旅行で高熱を出し、妻だけを現地ツアーに送り出しベッドに伏せっていたという自らのエピソードを紹介し、どんな旅でもその記憶はいつまでも楽しく思い出されると述べました。さらに、障害のある方々に旅の機会が提供されるのはすばらしいことで、行政もそれに貢献していきたいと話されました。


宮本会長の基調講演
続いて三重豪NZ協会の宮本会長の基調講演がありました。その内容は以下のとおりです。
テーマは「ユニバーサルツーリズム -シニアと視覚障害者を中心として-」です。
こうしたテーマで公開討論会をするのは、おそらく日本で初めてかもしれない。2005年「愛・地球博 」会場で在日ニュージーランド大使館が主催したパーティーの折、ある旅行代理店幹部が、「三重の協会では視覚障害者と一緒に海外旅行をし、評判がいい。旅行社はあらゆる人々に旅を楽しんで欲しい。でも、どうしたら視覚障害者が旅行に満足できるのか分からない。秘訣があれば教えてほしい」と語りかけてきました。私は視覚障害者。仕事上必要で海外へ頻繁に出かけます。視覚を理由にやめようと考えたことがなかったので、意外な質問でした。
JRPS三重とともに3回の海外旅行をしています。目的地では各自が自分の都合にあわせ自由に動き回っています。経験が自信につながり、三重豪NZ協会のサポートは不要になりました。目が見えないからできないと思い込むのは誤りです。眼科医をはじめとして、日本の社会が目に見えない人は何もできないと間違った教育をしているのです。
さて、二つのことを言いたいと思います。まず、五感が大切です。聞く、触れる、味わう、においを感じるなどの五感です。海外へ行くと五感がよくなります。情報の90%は、目から手に入れるといわれています。しかし、目が見えなくても様々なことができます。感じます。海外では珍しいおいしいものがたくさんあって、それを味わえます。耳からもたくさんの情報が入ってきます。ニュージーランドでは、街を歩いていると気軽に声を掛けてくれる。山道を登っていると声援がある。レンタカーが故障して困っていたら3台もの車が止まってくれ、応急修理をした上、ガソリンスタンドに連絡しておいてくれた。昨日クライストチャーチで銃乱射事件があり、野蛮な側面が露呈しましたが、ニュージーランドにはたくさんすぐれた人的・地域生活関係が見られます。五感を働かせれば、その人なりに十分旅行を楽しむことができます。
「ごかん」というと「語感」、つまり「言語感覚」も大切です。ニュージーランドで英語がまったく分からなかったらたいへんです。しかし、少しでも分かったら楽しめます。
もう一つ言いたいのは、「共生」、「共に生きる」ことです。外国へ行くとコミュニケーションが大切です。ニュージーランドでもオーストラリアでも、現地の人々と交流会をしました。昨年オークランドでも交流会をして河原さんが英語で 挨拶しました。その英語は立派で、十分に通じています。大事なのはみんな仲良くしようという心配りです。そのためには会話が大切、会話をすることで共に生きていくのです。
わたしは学生諸君に講義で「地球規模で考え、足もとから行動しよう」と呼びかけてきました。世界中の出来事が日本に関わるようになり、日本できちんと生きようと思えば、国際的な視野が必要です。しかし、私たちの生存の場はここです。行動しなければ何も始まらない、行動を起こすのはここ、三重であり松坂です。
これから話をしていただくパネラーは昨年2月ニュージーランドへ一緒に行った方々です。海外経験も豊富で、三重県を拠点にして大いに活躍しておられます。今日は、みんなで「共に生きる、共に考える」ことが目的です。パネラーの話を聞くだけでなく、多くの方々が意見を表明していただくようお願いします。


パネルディスカッション
続いて畠山義啓協会副会長の司会でパネルディスカッションが始まりました。JRPS本部役員の辻本和仁氏は、職場の同僚に連れられてスイス、イタリアをバックパッカー旅行したのを皮切りに始まった豊富な旅行体験を披露しました。辻本氏からは報告原稿をいただきましので、本メルマガの最後に掲載しています。
藤牧隆子氏の報告は以下のような内容でした。
音訳の立場から  わたくしは今話題の児童相談所に勤めていました。定年退職まで本当に激務でした。退職後、福祉分野でお役に立ちたいと思っていたら、広報で「音訳」を知りました。三重県視覚障害者支援センターで研修を受け、鈴鹿の音訳グループ「鈴の音(スズノネ)」で活動を続けています。ニュージーランドへは音訳グループとして同行しました。美術館を案内したり、鈴鹿市内を一緒に歩いたり、視覚障害者の方々と直接接する中で、三重豪NZ協会の宮本会長と縁ができ、御著書も音訳しました。
今回の旅行中オークランドの視覚障害者支援施設を訪問し、その際、同行者と別れ、録音室等を見学しました。防音設備が整った6畳以上の広さの録音室が7つ、それぞれに必要な機材が備えられ、とてもうらやましかった。壁に貼ってあった写真から、充実した活動ぶりを知り、ニュージーランドの人たちは幸せなんだなとも感じました。
それと較べると三重県は貧しい。三重県視覚障害者支援センターの録音室は3人しか使えません。鈴鹿市は録音室が2ヶ所ありますが、完全防音設備があるのは1つだけ、ない部屋では雑音を拾ってしまう。会員は自宅で録音することになります。そうすると、マイクなど高額な機械が必要となってお金がかかり、家族の理解が得られないこともあます。日本ではボランティア活動にはまだまだ困難が伴います。公費支援は乏しく、寄付を募ってようやく会員に貸し出すパソコンを購入しています。公費でまかなえるのは消耗品のCDくらいです。
鈴の音では音訳を年間30冊程度、ほかに「声の広報すずか」、機関紙「やまびこ」を発行しています。一番の課題は会員不足です。会員の高齢化も問題です。
今回のニュージーランド旅行で知り合った福田先生にお願いして高田短大で何回か出前音訳講習会を開催し、学生3人の参加を得てたいへん喜んでいます。作り上げた成果の利用を広げたいのですが思うにまかせません。力を入れている自治体の「声の広報」の発送部数が少ないのは残念です。プライバシーの問題もあるのでしょう。
ニュージーランド旅行でも音訳の活動でも、自分の知らなかった世界をいっぱい体験しました。音訳ではこれまで読んだことがなかった著者と出会い、別の人物像を見つけることもあります。私が頑張れるのは、多くの方から元気をいただいているからです。 ほんとうに感謝しております。

福田洋子氏の報告は以下のような内容でした。
介護社会福祉の立場から  高田短期大学で教員をしています。短大での三重豪NZ協会宮本会長の講演で、協会のユニークな旅行を知りました。ニュージーランド旅行計画を聞き、ぜひ同行したいと思いました。三重大学付属病院で看護教師をしていたことがあり、同行援護の資格も持っています。視覚障害者の方が鏡を見なくてもメイクができる「ブラインド・メイキング」を学んだので、どのような心配りが必要か多少は知識があります。不安はありましたが、お役に立てることもあるかと同行したところ、みなさま旅行にたいへん慣れていて、お手伝いすることはあまりありませんでした。みなさまが楽しく旅行しておられるのを知ったことが、大きな収穫でした。
旅行で藤牧さんと出会ったのは、大きな出来事でした。学生に藤牧さんの活動を紹介し、「鈴の音」から講師を派遣していただき、講習会を開催できました、視覚障害者の方々が積極的に楽しんで自分の世界を広げておられるのを知り、わたくしもそれで自分の世界を広げることができたと思います。そしてボランティア活動としてのアフリカ体験の紹介がありました。アフリカは今もたいへんな状態です。わたくしが行ったのは水もあまり出ないような所でしたが、現地の人に助けられて、住めば都で、後から思うと楽しかったなと感じています。非日常的な体験を経て、人は成長していくのだと思います。ご縁があり、ここでこうしてみなさまにお話しさせていただくのもみなさまのおかげだと思っています。ありがとうございました。

内田順朗氏の報告は以下のような内容でした。
白杖、車いす、盲導犬と海外  わたしの経験から国内、国外を問わず、どうしら視覚障害者が旅行を楽しめるか紹介します。わたしは20代の後半から視力が弱くなり、30歳前に会社を辞めました。今鍼灸師をしています。資格を取るため東京の学校で勉強しました。卒業後同窓生などと旅行会を作りました。弱視の人の中には、全盲の人を引っ張っていく力がある方もいましたが、全体の安全確保のために健常者が1人ほしくて、知り合いとか職場の仲間にお願いしたのでした。こうして立ち上げた旅行会は現在も続き、海外も含め2年に1回、計30数回出かけています。
健常者の同行では費用負担が問題になります。われわれが全額出すと健常者に重い責任を感じさせることになります。彼らも旅行を楽しんでいるのだから応分の分担をお願いし、おおよそ50~40%支払ってもらっています。
旅行は可能な限り自己責任です。規約はありませんが、各自の自覚でやっている。
2回目だったか、城崎温泉へ向かう際京都駅ホームから転落し、1ヶ月以上通院することになってしまいました。それを契機に事故に気をつけるようになりタイトなスケジュールは避けるようにしています。
学生の頃から海外に関心があり、何回か出かけています。海外旅行では現地の人と話をすることが大切です。今回の旅行は世界網膜協会(RI)の世界大会がオークランドで開催されるのを機に実施されました。わたしは大会の行事の一つであるレセプションに参加しました。タクシーで会場に行ったのですが、運転手と話をして多少は通じたかなと感じました。海外で会話する初めての経験でした。
わたしは三重県視覚障害者協会の会長もしており、三重県障害者支援センターの運営に関わっています。いろいろ問題があると思っておりますが、私たちの力だけでは及ばないこともあります。ボランティアの方々のご苦労もどれだけ分かっているのかなと反省もしております。でも、少しでもよい方向に向けていくよう努力したいと思っております。



私と海外旅行  辻本和仁

先にご紹介していただきました、辻本です。よろしくお願いします。
私は、自分がこれまでに行ってきたいくつかの海外旅行の経験をお伝えしながら少しだけですが分かってきた私の旅行との向き合い方についてお話できればと思っています。
さて、私が初めて海外旅行をしたのは、今から24年前です。35歳になった冬に、当時の職場の仲間、学校の先生たちですが、男性5人で冬休みを利用してスイスとイタリアへの旅をしました。新婚旅行は沖縄でしたので、これが初めての海外でした。5人のうちの一人は、美術の先生で、ドイツに絵の勉強のために、単身で2年間ほど勉強に行っておられたという経験のある人です。もう一人は、海外青年協力隊員としてネパールに行っておられたことのある先生です。つまり、お二人とも旅行というより、外国で生活をした経験をもっておられた方です。
勿論、その他にも何度も旅行されていて、旅行経験の豊富な人たちです。その二人に私を含めて、海外は初めてという3人が連れていってもらったという形の旅行でした。出発前には往復の航空券と初日に泊まるホテルだけ予約し、あとは全部現地でというバックパッカーとしての旅です。泊まるホテルも乗る列車も食事をするお店も、すべて現地で探して決めていきます。それだけにとても自由な旅です。13日間の旅行で、当時はまだ通貨がリラでしたが、旅費と現地で使ったお金を全部入れても20万円ほどの旅行でした。その旅の私の目的は、もちろん観光というのもありましたが、当時使っていた一眼レフカメラで写真を撮ってくることがひとつと、もうひとつは、その旅に詳しい先生 お二人の旅行スタイルを自分も体験してくるということでした。そういう意味において、この旅行は大変良いものでした。なので、その年の夏にはまた、さらに3人を加えた8人でスペインに出掛けたのです。でも、8人で行動するのは多いなということになって、5人は予定通りスペインを、3人は急遽ポルトガルに行くことになりました。マドリードで別れて、10日後にまたマドリードで再会して帰国したのです。そんな旅行でした。
これが私の海外旅行の原点となりました。この2回の旅を通して、私は、旅行の面白さと楽しさを知りました。それまでは、旅行なんて終わってしまえばそれだけじゃないかと思っていたところがありました。どうせお金を使うのなら、何か後に残って使える物を買うべきだと思っていたところがあったのです。ところがそれが一変したのでした。その後は、いろいろな海外旅行をしました。順序は違いますが、家族ではグアム、サイパンに行きました。パラオに行ったのは、三重県とパラオの友好関係樹立何周年記念企画というのがあったので参加した時でした。参加者が多く、飛行機は2機に分かれ、そのうち1機はチャーター便で行くという大団体の企画でした。このパラオには、両親と叔父叔母と5人で参加しました。二度目のイタリアは、妻と二人でお安いツアーに参加しました。ツアーでの旅は、はじめは初対面の人たちでも、一週間ほど一緒のバスで旅をしていると知り合いになります。その旅で知りあった人の中で、今でも連絡を取り合っている秋田県の人がいてくれます。
このように、一口に海外旅行といっても、旅の方法にもいろいろありますし、ひとつの旅行でもその人その人それぞれに違う目的があり、違う楽しみ方があるし、また、あってよいのだとわかりました。例えば、初めてのスイス、イタリア。旅の後で 旅行反省会という飲み会をしたときですが、同じようにカメラをもって写真を撮ってきたもう一人の先生の写真と自分の写真を比べてみるちがう風景を撮ってきているんですね。面白いなあと思いましたし、自分には撮れない写真があったりすることも楽しい発見でした。
そんなうちに、私の網膜色素変性症も進んできて、白杖を持つようになりました。
初めて白杖を持って出かけたのは、上海でした。私が持って行ったのは、まだこの時は直杖といって、折り畳み式ではない長い杖でした。列車に乗って蘇州にも行きました。同じ職場の先生たちとの旅行でしたが、以前とはまた別の人たちと4人の旅です。宿泊ホテルだけ確保しておいて出かける、自由行動だらけの旅です。
こんななエピソードがあります。上海の町を歩いていると、「すれ違う人たちがみんな、その白杖をみていくんよ。凄く注目されとるに」と一緒に行っていた先生が教えてくれました。珍しかったのでしょうか。あるお店に入った時のことです。店に入ると同時に、私の横にスッと若く頑丈そうな店員さんというより警備員さんのような人が近づいてきて、私をジッと見ているのです。ハハーん、もしかすると私をカンフーとかの棒術使いか何かだと見ているのかもしれないなと思いました。白杖ではなく、武器のような凶器のような物に思われていたのかもしれません。それで私と私の持つ棒を警戒していたのでしょうか。これが本当の用心棒、私の「上海の用心棒」というエピソードです。
白杖を持つようになってからは、この他にソウル、ハワイ、台北そして今回のニュージーランド。最近では、いよいよ写真を撮ったり、写真を見たりすることが困難になってきました。私が旅行で写真を撮ってくることには、作品を作るという一面と、旅の記録として残すという意味がありました。お気に入りの写真を学校の文化祭で個人作品コーナーに出展しました。また、アルバムの写真集をめくると、旅行の思い出をよみがえらせることができたのです。そんなことができにくくなってきてから出かけたのが、今回のニュージーランド旅行でした。ニュージーランドへは、JRPS三重の設立10周年記念でロトルアを中心に旅行してから2度目です。
前回の時、12年前には、デジタル一眼のカメラで写真を撮ってきていましたが、今回はカメラの代わりにいIC レコーダーを持って行き、音声メモで記録を撮ってきたのです。そして、旅行後に体験記を会報に掲載したいとのお話をいただいたことが、私のニュージーランド旅行記をまとめるきっかけをいただいたことになり、記録と記憶を基にまとめていくことに繋がりました。
三重オーストラリア・ニュージーランド協会とJRPS三重とで企画していただいた旅行との出合いは、私にとってまたこれまでのいろいろな旅行とは違ったスタイルの旅行です。安心・安価・安全を基調としながら、視覚障がいの有無を超えて、それぞれにとって有意義な旅を楽しむことができることを目指しているところが重要なポイントだと思います。
こうして、お話をしてきた今までの海外旅行を振り返ってみると、一緒に旅に行ってくれる人がいてくれたからこそ出かけることができたのだと改めて思います。そして、その人たちは決して付き添いだけではなく、一緒に旅をする仲間でした。確かに手引きなどお世話をかける面は必ずあるのですが、それは特別なことではなかったと思います。今は、一緒に旅行を企画したり、そういう意味で対等な立場でという考え方をもって一緒に旅に出かけようとしてくれている人の存在を大切にしなければと思うのです。とりわけ、三重オーストラリア・ニュージーランド協会とその関係者の皆さんとの旅行に出会うことができて、強くそう思うことができます。
今後も、視覚に障害があっても、若い人はもちろんですが、少しばかり高齢になってきていたとしても、多くの人が、それぞれに見合った場所に出かけられるような旅の仕方と旅の仲間ができることを願うと同時に、視覚障害者と出かける旅行にその意義を見い出してくれる正眼の方々が多く増えていただくことを願います。
 ご清聴、ありがとうございました。



編集後記

本号は「みんなの広場 in 松阪」特集です。発行が遅れ申し訳ありません。紙面の都合から報告内容等を要約しております。真意を伝えられていない所が多々あるかと思いますが、ご容赦賜れば幸いです(MT)。





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