宮本忠・由紀子
3月11日 金曜:いよいよ出発
読者諸賢がお気づきのように、出発の3月11日は、東日本大震災の発生日であった。
そんなことは参加者の誰も予想だにせず、中部国際空港(セントレア)を、午前11時発の
SQ0671に搭乗し、シンガポール・チャンギ国際空港に向かい飛び立った。夕刻17時に到着。
乗り換え19時45分発の夜間飛行SQ0297→クライストチャーチに向かった。
着陸と同時に大震災の悲報続々
12日の朝10時30分、クライストチャーチ国際空港に全員元気に降り立った。
ここは、オークランド国際空港(北島)に次ぐ、ニュージーランドで二番目に大きな空港である。
かなりの人ごみ。天気は、うす曇であったが、気分は上々。ところがである。びっくり仰天!
入国・税関手続き、荷物のピックアップが順調に進行している途中、
メンバーの国際携帯電話に、日本の家族から「東北地方の巨大地震と津波」のニュースが
続々と入ってきた。「旅行を直ちに中止し、日本に帰るように」という深刻な電話もあった。
空港内で、みんなで緊急会議を開き、慎重に議論した。
その結果「予定通り旅行を続行する」というのが全員の一致した意見であった。
すなわち、先ず、クライストチャーチ大震災の爪あとを視察してから、その後に
南島を山岳列車やレンタカーを利用して、約十日間、3月22日まで旅することを確定した。
旅行2日目は、もともと、クライストチャーチ地震の被災状況の視察が主たる目的であったが、
同時に、クライストチャーチ・ガーデンシティ花祭の見学も、密かに期待して来たのであったが。
花祭りは、例年3月頃に行われる。世界的に有名なフラワー・ショー。
大聖堂内には花の絨毯が敷かれる。ハグレー公園では、各種の「花と緑」の関係諸団体が
テントを張り、発表会やデモンストレーションなどを行う。
新たな観光戦略として復活した路面電車、バス、道を行くマイカーの一部も、花で飾られる。
街を貫流するエーボン川も花、花、花。恒例のガーデン・コンテストも盛大に行われる。
ガーデンシティを謳うクライストチャーチの中心街は花一色に染め上げられるはずであった。
たくさんの国際色豊かな観光客 でにぎわう華やかな街が出来上がるはずであった。
さて、話題は現実に戻る。空港観光インフォメーションのおにいさんが、気の毒そうな声で
「クライストチャーチ市街の中心部はストップ状態です」という。しかし私たちが宿泊する
「リカトン地区やモーテルは大丈夫。バスやタクシーで行くことは可能です。
予約しているモーテル付近からバスがあるから、そこからいろんなとこに行ったらいい。
モナベールはオープンです。ハグレーパークはオフです。街のセンターには行けません」と教えてくれた。
私たちの緊急会議の結論は「予定通り、旅行決行」であったので、空港から、シャトルバスで、
リカトン・モーテルに直行(チョッコウ)した。モーテルまでの道路は、普段と変わらず、
多くの車が行き来しているようだ。シャトルバスの運転手さんが笑いながら言った。
「空港インフォメーションは、ストップ、ストップと言うけれど、行けるところは結構あるよ。
ミュージアム(博物館)も、アンタクティカ(南極)センターも、
ボタニック・ガーデン(植物園)にも行けるよ」。
前回の親善交流旅行ですでにおなじみのモーテルの主人・ジョージが、陽気に、暖かく迎えてくれた。
一行の部屋割りをして、一服してから、徒歩でハグレーパークと街中心部に
出かけることにした。これは、ジョージのアドバイスであった。「歩くならば、モナベールや
ハグレー公園に入ることは出来るし、また、被災中心地にも近づくことができる」に従ったのである。
先ず、夜間飛行プラス空港での緊急会議の疲れを癒やすため、由緒ある閑静な伝統色の
モナベール邸でアフタヌーンティを取ることにした。ここは、19世紀に建てられた広大な庭園をもつ
旧邸宅である。庭に、ボート遊びができるエーボン河が閑静に流れている。ボートが遊び、薔薇をはじめ、
種々の花の草木を楽しむことができる。レストランがあり、結婚式もできる。
1967年に、クライストチャーチ市がこれを買取り、現在も市が管理している。が、残念ながら、
入り口に綱が張ってあり、レストランに入ることは出来なかった。
次いで、ハグレー公園に出向いた。この途方もなく巨大な公園は市の中心街にある。
東京ドームの40個近くが入るといわれる約160ヘクタールの面積である。
そのハグレー公園にも人にほとんど出会うことはなかった。ただ公園内のスポーツグラウンドから、
ときおり元気な若者の掛け声が聞こえた。妻が「テニスをしている」と言った。ラクビーもやっている模様。
クライストチャーチ地震直後、日本で旅行の準備をしていたとき、
今回訪れる山の秘湯・マルイア温泉ホテルの‘おかみブログ’は、地震直後のハグレー公園の状況を、
こう書き込んでいた。「公園内の真ん中の道だけは通ることはできる。ところどころに
液状化した砂が積んである」。そんなことを思い出しながら「なるほど、なるほど」と
確かめるように歩いた。通路脇には、液状化した砂がところどころに寄せ上げられていた。
膝まづいて砂を手ですくうと、指の間から砂がサラサラと流れ落ちた。小麦粉のような微細な砂であった。
この公園に来たときしばしば愛用したカフェテリアの周囲にも、綱が張ってあった。
「公園内のトイレは利用できません」との立て札を見て「もようしてきたのに」と誰かがつぶやいた。
「わあ、でっかいうなぎ」とKさんがみんなをでっかい声で呼んだ。公園には、エーボン川が
おだやかに流れていて、いつもなら、底の浅い船であるパントでパンテングや
ボート遊びをしている人がいる。「クライストチャーチは、埋め立てられて出来た砂の街。
だから、今でも、ウナギ釣りをすることができる」と、リンカーン大学で研究していたときに
‘ウナギ釣り’に誘われたことがあった。私たちが目撃している大人の腕ぐらいある大きなウナギが
その当時からの子孫であるかどうかはわからないが。エーボン川の橋を渡り、
植物園のローズ・ガーデン(薔薇園)に入った。満開ではないが、赤、白、黄色、オレンジのバラが
いい香りを漂わせている。一輪のバラを手に受け、鼻を近づけた。プーンとやさしい甘い香りがした。
大きな松の木の下に、手のひらに入りきらないほどの松かさが落ちており、女性たちが
大声を出して手のひらにのせている。
植物園をでた。博物館にも綱が張ってある。大聖堂への道に入ったが、途中で「通行止め」になっていた。
その地点で、大聖堂が見えるはずだった。が、見えない。上部が地震によって崩れたからであった。
かつては、カンタベリー大学の講堂などであった。今は、芸術家の卵のたまり場、その作品、
特産物、みやげ物の店になっているアート・センターの一部である円錐形の屋根が下におろされている。
倒壊しなかった高層ビルの壁面のいたるところに大小のヒビ割れ、H型のひび割れ、窓と窓の間には
横にひび割れができている。この辺りがクライストチャーチの中心街である。
路面電車も、バスも、タクシーも、一般車も観光客の姿もない。崩れた大聖堂、倒壊したビル、
そして、大聖堂前に集中していたみやげ物店の並んでいた中心市街地は、高い鉄条網で包囲され、
その中に入ることは出来なかった。日本のテレビ・タレントの土産店は、どうなるのだろうか。
倒壊したビルは、地震対策が十分になされていなかった古いものであったようだが、
一般住宅も崩れたのは古い建物のようであった。被災して空き家になっている人の気配が
ほとんどない街の歩道にも、オックスフォード・テラスにも、地下から噴出し液状化した細かい砂が盛り、
積み上げられていた。水を吸ってカチカチになっている砂の固まりもある。この始末(シマツ)にも、
大変な資金と人が必要だと思った。空き家の玄関先に、避難先の住所と電話番号が、むなしく貼ってあった。
観光客でにぎわっていた「花と緑」のガーデン・シティは、いつ蘇るのであろうか、と暗然となった。
万歩計(マンポケイ)で記録していたメンバーによれば、モーテルから激震地を、約2万歩近く歩き回った。
Aさんは、御主人から「地震で亡くなった人を慰霊するために、数珠(ジュズ)をもってゆくように」
と言われ、それを手にしながら歩いた。
三月半ばは南半球の初冬である。夕方近くになると、冷たい風が吹いてくる。
人や車に出会わない街を、一層、わびしく感じさせた。そんな中、
ハグレー公園のスポーツグラウンドから聞こえてくる元気な若者の掛け声と審判の笛は救いであった。
クライストチャーチ再建の力強い雄たけびにも聞こえた。
足を少々痛めたKさんと僕を含む4人が、なかなかやってこないタクシーに乗って、
モーテルに帰った。やっと出あった、現地の親切な女性の助けにより、電話で呼んでもらった
タクシーである。明るいよくしゃべる若い運転手さん。話題の中心は、東日本大震災だった。(続く)