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会長の目


旧日本軍ダーウィン空襲慰霊式所感  
宮本忠


今から75年前のことである。1942(昭和17)年2月、旧日本軍は連合国軍の拠点の一つであったオーストラリア北部ダーウィンに対して激烈な爆撃を行い、大きな被害を与えた。
1945年に終戦となり、本2017年2月19日、現地ダーウィンにおいて両国の軍関係者や地元住民らの参列の中、オーストラリアのターンブル首相と草賀純男在オーストラリア日本大使が先の空襲によって犠牲になった御霊の慰霊碑に献花をささげた。

現在では、日豪友好協力基本条約が1976年6月16日(東京)において締結され、両国は平和の中で共存共栄政策の履行につとめている。

2014年のお盆すぎの8月19日からの約十日間、三重豪NZ協会は冬まっただ中・灼熱のオーストラリアの準州ノーザンテリトリー(北部特別地域)ダーウィンを訪問した。ダーウィンは北部地域の中心都市である。8月19日、三重県鈴鹿市の自宅を午前10時半過ぎに出立。成田空港を経由して夜間飛行で翌朝シドニー空港に着いた。乗り継ぎをして午後2時半にダーウィン空港にやっと到着した。自宅から約26時間の往路であった。オーストラリア連邦は、州(states)が六つと二つの特別地域で構成されている。特別地域は、首都特別地域(キャンベラ)および、ノーザンテリトリー準州である。後者の総面積は日本の約3.7倍、人口は約22万人。ダーウィンの人口は約12万人。1日バスツアーで訪れたユネスコの自然・文化の複合遺産、オーストラリア最大かつ最初の国立公園カカドゥ国立公園の面積はほぼ四国と同じとされる。この旅路で初めて知ったのだが、ダーウィンの人たちにとって忘れることのできない大災難は二つあるという。巨大サイクロントレイシイおよび旧日本軍の襲来である。前者は1974年12月25日クリスマスに来襲し約50人が死亡し町の建物7割が破壊された。後者は、1942年2月19日を頂点に、ダーウィンは、約240の日本軍戦闘機などによって襲撃され、約240人の命が失われ、かつ町が大破した。そしてこの悲惨な大事件は今もなおここを訪れる者に訴え続けられている。例えば、政府官庁をはじめ、いろいろなところで伝えられている。バスツアーのガイドにおいて、軍事博物館でも、また政府庁舎前の看板においても。
「Lest We Forget(私たちは決してこの事変を忘れない)」




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