「ダーウイン紀行」(速報) 宮本 忠
お盆すぎの8月19日からの約十日間、冬まっただ中・灼熱のオーストラリアの
ノ ーザンテリトリー(北部特別地域)とその中心であるダーウインを漫遊した。
ダーウインは、オーストラリアでアジア(インドネシア)に最も近い都市である。
三重オーストラリア・ニュージーランド協会の恒例の事業。19日、三重・鈴鹿を午前10時半過ぎに
妻と出立し、成田を経由して翌朝シドニーに着いた。4時間のフライトで目的のダーウイン。
これはオーストラリア国内便である。念のため。定刻通り午後2時過にダーウイン空港に着陸したと
思いきや、着陸後、30分以上になっても機は飛行場内を少しずつ動くものの、ドアは開かない。
「ハイジャックか?」などと想像したものであったが、機長の特別の説明はない。この空港は
オーストラリア空軍との共用になっており、私たちが着陸したときに10数機の戦闘機が
次から次へと帰還した模様であった。ダーウイン空港はオーストラリアの北の前線空軍基地に
なっているからである。オーストラリア連邦は、州(states)が六つと二つの特別地域で構成されている。
特別地域は、首都特別地域(キャンベラ)および、ノーザンテリトリーである。
ノーザンテリトリーの総面積は日本の約3.7倍、人口は約22万人。ダーウインの人口も
約12万人にすぎない。1日バスツアーで訪れたユネスコの自然・文化の複合遺産、
オーストラリア最大かつ最初の国立公園カカドゥ国立公園の面積はほぼ四国と同じとされる。
協会の親善交流旅行はこれで15回目。通常は、自分たちで企画、宿舎やレンタカーを含め、
自主・自由に決める自己責任の旅である。ダーウインに関する日本の旅行社によるツアーは
ほとんどなかった。先方の情報をパソコンで取ろうとしても、オーストラリアの他の都市と
比較して、きわめて貧弱なものであった。そこでホテルだけ日本から予約して、後は、
到着してからダーウインのビジターズインフォメイションの係りの人と相談して
旅行計画の大要を現地できめることにした。以下、本旅行で印象に残ったことを思いつくままに。
ダーウインの街は他のオーストラリアの都市と同様、ヨーロッパ、とりわけイギリスと似てよく整い美しい。
政府機関、議会、裁判所などの公共建造物も立派。ショッピングモールフードコート、
スーパーマーケット、レストラン、ビジターズセンターもにぎわっている。
現地のおばさんから教えてもらったパブ(居酒屋)で、好物のチップ アンド フィッシュや
ラム料理に出あいラッキー。感激した。鉄道はダーウイン・アデレード(南オーストラリア州都)間に
豪華観光列車「ザ・ガン」が走る(2979km)。自動車専用道路、一般道路も整備されている。
網の目の市内定期バス・郊外観光バス。タクシーはメーター制。ビジターズセンターから
呼んでもらったが、40分ほど待っても来なかった。結局、めったに来ない「流し」を拾った。
日本から予約してきたホテルはプール付きであった。ボンド(補償金)を一部屋100豪ドルを取られたが。
チェックアウトのときに返金された。この種のボンドは、オーストラリアでは初体験。
旅のハイシーズンだったので部屋が込んでいてモーテルを3回変えた。ダーウインフェスティバルの
期間がすぎた翌日から一部屋70豪ドル安くなった。どの宿舎も親切で快適だった。
ノーザンテリトリーは70以上の民族の多民族社会である。総人口のうち約4分の1が
アボリジナル(先住民)であり、オーストラリアの内でここに一番多く彼らが住んでいると
いわれる。ダーウインの街頭にもバスにおいても彼らの言語を耳にすることができる。
カカドゥのアボリジナル文化センターの入口には、
「私たちは自らの言語をもつ。英語は第三言語である」と誇らかに案内していた。
8月7日から24日まで、一か所でなく、公園、広場、入江、海浜、植物園など、
アジアからの出演も含め、多彩かつ盛大に『ダーウインフェステバル』が展開されていた。
私たちも、市民コーラス、アボリジニコーラス、黒人霊歌(南アフリカ)、水中人形劇(ベトナム)などを鑑賞。
人口の少ないところのはずなのに身動きできないほどの人で埋まっていた。
中には有料で一人4000円もするイベントもあった。日本から参加の催しもあったが
すでに期日が終了していた。日本製の自動車が大変多いし、中華料理店の広告には
「中国・日本料理」との表現もみられたが、滞在中、日本人に会うことはほとんどなかった。
ダーウインの人たちにとって忘れることのできない大事件が二つあることを改めて思いしらされた。
巨大サイクロントレイシイおよび旧日本軍の襲来である。
前者は1974年12月25日クリスマスに襲来し約50人が死亡し、町の建物7割が破壊された。
後者は、1942年2月19日を頂点に、ダーウインは、約240の日本軍戦闘機などによって襲撃され、
これにより、約240人が死亡し、街は大破した。この大事件は、政府官庁をはじめ、
いろいろなところで伝えられている。バスツアーでも然りである。軍事博物館では記録の映画によって。
政府庁舎の前には、「Lest We Forget(私たちは決して忘れない)」と掲示してある。