〔報告〕第1回オーストラリア・フレンドシップ講座〜日豪関係について〜
冨田正宏(協会副会長)
2012年11月4日(日)・津リージョンプラザ第6会議室
以下、本文です。
日本とオーストラリアは、現在良好な関係にありますが、歴史的に見れば紆余曲折を経て
現在のような関係に至ったことが分かります。私は、今回スタートした「オーストラリア・フレンドシップ講座」の
テーマとして、この「日豪関係」を取り上げて参加会員の皆さんと共に考えました。
まず日豪両国が最初に出会ったのは、いつだったのでしょうか?
日豪関係史によると、1831年シドニーの捕鯨船が荒天を避けるため北海道の南岸沖に投錨し、
薪と水を求めて江戸時代の駐屯兵と戦闘になったという記録があります。
これが現在確認されている最初の出会いです。
そこで日豪関係史から、@捕鯨 A白豪主義 B対日観 C戦後という四つの話題を皆さんに提供し、
日豪関係史の略年表等を参照しながら、歴史的事実を基に日豪関係の現状と今後について、
議論を重ねながら理解を深めることに努めました。
@の捕鯨について、19世紀から20世紀中葉にかけて、オーストラリアは米国・ノルウェーなどと共に、
灯火燃料や機械油用の鯨油目的の捕鯨を盛んに実施していました。これに対して日本の捕鯨は、
古くから食糧目的でした。オーストラリアは、現在代表的な反捕鯨国の一つとなっています。
この話題について、参加会員の体験談や両国の文化論等で大いに盛り上がりました。
Aの白豪主義の日本に対する政策は、Bの対日観の歴史的変遷と関連しています。
たとえば、日露戦争(1904-05)中には、共通の敵ロシアと戦う日本に対して親日論が台頭し、
日本人が商業・教育・観光目的で入国する場合、語学書き取りテスト免除するという日豪パスポート協定が
締結されました。そして第二次世界大戦(1939-45)中には、3年半に及ぶ交戦状態が続き、
残酷で非人道的な日本人という最悪のイメージが形作られました。
C戦後になっても、このイメージは容易には払拭されませんでした。
1946年、極東軍事裁判長に就任したオーストラリア人ウィリアム・ウェブは、
最も厳しく日本の戦争犯罪を糾弾しました。そのような歴史を経て、
両国は徐々に経済的・文化的・人的な結びつきを深めていったのでした。
今日の両国の良好な関係が、こうした経緯を経て築かれたものであることを確認し、
今後の関係について熱く意見交換を行いました。以上