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JRPS三重オーストラリア旅行後援報告》(その4)



当協会は本年2010年6月、標記旅行を後援、支援し、その企画、同行を行いました。以下、JRPS三重の参加者の方からお寄せいただいた感想文等を順次、掲載いたします。なお、JRPS三重は、日本網膜色素変性症協会三重支部を略したものです。



                           「オーストラリアへの旅」

                                             雨窪美紀


 私は海外旅行が初めてです。それに1週間という長旅も初めてでした。不安一杯の海外旅行でした。

6月14日に津のなぎさ町からいよいよ出発です。このツアーの団体はJRPS(日本網膜色素変性症協会)の三重支部(RP三重)です。その創立15周年記念行事として企画されました。安心安全を踏まえてなおかつ安価にてオーストラリアを楽しんでこよう、と言う趣旨にて実施されました。

参加人数は日本から29名と現地で1名の30名の団体です。日本とオーストラリアの「かけ橋」を目指してくださっている三重オーストラリア・ニュージーランド協会の宮本会長さんが私たちの患者会員であるのがこの旅行実現に結びついたと言う事です。そこで私も娘の引率にて参加させてもらった。セントレア空港から韓国のインチョン空港を経由してシドニーへのトータル飛行時間13時間以上かかりました。機内食はまずまず嫌いな物もなく食べることが出来たが、シドニーへ向かう中での朝食は午前3時半頃に出てきたのには睡眠中でもあり、驚きでした。しかし食べてしまいました。

シドニー空港から、キャンベラで3連泊するクウォルティーホテルまでは、バスで3時間ほどでつきました。ここで4人部屋を与えられて荷物を収納してからいよいよ観光です。まずその日は国立美術館(ナショナルギャラリー)へいきました。視覚障害をもつ人のために用意されている、手で触ってわかるオーストラリアの文化を見ると言うことで、蜂蜜を入れる篭や色々な壺などを20点ほど順番に見せてもらいました。

16日は朝から役員さん達など10名は、テロピアパークスクールの日本語学級へ招かれ、ゲストティーチャーで行きました。私たちはボタニックガーデンという植物園の散策です。日本にはない珍しい植物が沢山植えられてあった庭園内のカフェテラスで昼食を食べました。オーストラリアにはこのような屋外で食事する所が多く有るとのことです。

その後ナショナルミュージアム(博物館)へ行きました。日本から来ていた坂本さんという若い女性の係員が案内してくれました。日本人だと言うことで坂本さんもすごく喜んでくださり、テンションが上がっていました。夜のパーティーにもお誘いしたら来て下さいました。夜はキャンベラやシドニーの視覚障害者の人たちがホテルに来てくれてパーティーを持った。私たちはバスなどで練習をしていった「ふるさと」「富士山」「幸せなら手を叩こう」の三曲を合唱しました。日本の視覚障害者は制度も充実していて職業に恵まれている事もあり、幸せを感じました。

 17日は、カウラへの遠足だ。先ず、カウラのビジター・インフォメーション・センターを訪ねました。カウラにはオーストラリアの旧捕虜収容所がありました。南方で捉えられた兵士を収容した所です。センターの中には、展示や小劇場があり、収容されていた様子を見ることができました。旧日本国兵士は捕虜になることが国民の恥であり、末代までがその不名誉として残るので国のために戦死した方がよいとの軍事教育を受けていたとのことでした。日本兵の暗い捕虜生活の写真が掲示されている反面、イタリア兵はサッカーなどをして捕虜生活をエンジョイしている写真が並べてあるのが対照的であると説明を受けました。オーストラリア人は捕虜となっている人たちは国のために戦ってきた国の英雄であるから手厚く扱ってあげよう、との国民性があったらしいです。それなのに昭和19年8月5日に日本兵は、ここから脱走することを企てた。殺害されることを知りつつ戦死の名を日本に知らすために340名が試みたとのことです。そこで230名の若き兵士が死の道を選んだという悲劇を聞かされました。オーストラリア人としては、日本人の心が理解できないと思いつつ殺害しなければいけなかったことに心痛め、日本人墓地を作り葬ってくれたとのことで、今も8月5日には合同慰霊祭を現地の人たちがしてくださっているとの暖かい心に触れてきました。その墓地には戦争にかかわって亡くなられた人たちを纏めて一つの日本人墓地としておまつりしてあるのです。小高い丘の静かな所で整備された芝生の中に一風変わった横長の埋められた石の上に日本の戦没者の名前と年齢のプレートが貼り付けてありました。ここで命を絶たれた人たちの無念を思うと自分たちの現在の命あることを喜べずにはいられなかったです。その500体ほどある、お墓の前で持ってきた線香を供えた後、日本の代表とする「富士山」の歌を全員で合唱しました。すすり泣く人もあり、昔の悲劇を顧みた時間でした。これが私として一番思い出となったようです。

 18日はキャンベラからシドニーへの移動です。ブルーマンテーンズを経由してホテルにチェックインしました。ブルーマンテーンズとは山の上が切り取られてしまったような平になっていてその山が何千キロも続いていて世界遺産になっている所です。この名前はユウカリから出る油が風にあおられてそれが青い色に見えて山全体が青く見えるところから付けられた名前らしいです。ひょっぴり森林浴をした気分になりました。

 19日はシドニーの観光地、オペラハウスへ行き、シドニー湾の定期船に乗船し、遊覧しました。ハーバーブリッジを見て日本とは全く違った光景を見学だと言うことだが、自分は見えないので説明をベースとして想像で楽しみました。その後町中を周遊しているモノレールに乗ってホテルに戻ってきました。夜はチャイナタウンへ出かけて全員で中華料理を10名のグループに分かれて食事を楽しんだ。私たちのグループには78才の誕生を迎えられたおばあちゃんがおられて、特別にケーキとワインを用意して誕生パーティーをしました。

いよいよ最後の宿泊です。もっと楽しんで行きたい、と思ったのは自分だけであろうか。

 20日はホテルを早朝の5時に出発して空港へ向かい沢山の思い出を持って夜の11時頃に帰宅しました。

出発から風邪気味で体調は優れてはいなかったが、鍼治療を受けたりしてみんなと同じように行動が出来たことに感謝してます。思い切って出かけた事以上に何かを得たものがあり、人生の1ページを強く刻み込んだ旅でした。

宮本先生を始め、オーストラリア・ニュージーランド協会のみなさんまた、この旅行を企画してくださったJRPS三重の役員の方々、多くのかたにお世話になりました。お礼を申し述べたいです。

乱文な旅行記ニお付き合い頂きありがとう御座いました。

                                                      


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